個性を潰す社会に負けるな

個性を潰す社会に負けるな
ナカタケこと中野丈矢です。

ビジネスにおいて、個性で選ばれる時代です。SNSで発信する人も増えてきて、情報発信がビジネスでの集客にも大いに活かすことができるからです。

情報発信をビジネスにつなげるためにも、「自分だけが発信できること」がビジネスを加速してくれるのです。そのためには、個性が必要になってくるのです。

けれども、社会を見渡せば「個性は邪魔者」という価値観もはびこっている気がしてなりません。

この記事では「個性を潰す社会に負けるな」というテーマから個性で選ばれるためのエッセンスをお届けしています。

最後までご覧ください。

完璧主義は個性を潰す

まずは、「完璧主義は個性を潰す」というテーマから。

日本に長く住んでいると、
  • 時間に遅れてはいけない
  • 顧客ファーストの徹底
  • 完璧な仕事をしなければならない
そんな仕事に誇りを持つ人と関わる機会が多いように思います。けれども、完璧主義でいることはメリットとデメリットもあるのです。

メリットは上に示したように人に信頼されやすい民族であるということ。一方のデメリットは、個性があることに対する「抵抗感」とでも言いましょうか・・・

「個性は邪魔である」という価値観があるのではないか?と僕は思うのです。

これは、どういうことか?

僕がフランス、パリに行った時の話から入ろうと思います。

いきなりストライキが起きるのが海外

日本という国はとても完成された社会だと感心したことがあります。

それは、パリのとある駅で電車を待っていた時なんですが電車を待てど、一向にくる気配すらありません。それどころか、電車一つ通過してなかったのです。

約1時間ほど待った頃でしょうか・・・

アナウンスが駅中に響き渡って、フランス語のアナウンスの次に、英語でアナウンスされました。そのアナウンスのすべてを聞き取ることはできなかったんですが、要点だけは理解できたのですが「日本じゃ、ありえん」という内容でした。

それもそのはず。

いきなりストライキが起きた・・・・のです。

当たり前は当たり前ではなかった

駅では見渡す限り電車を待つ人。僕みたいな海外からの旅行客もいれば、商談前のビジネスマン、さらに通学中の学生もいたのです。

そんな地元の人たちは、急なストライキのアナウンスを聞いて、「またか」という具合でそそくさと別の鉄道へと切り替えたのです。

一方の僕は、何をすべきか分からないほどの混乱状態。電車は定刻に来るのが当たり前だったし、ストライキなんて映画やドラマの世界のようなもので遠くの世界で起きることだと考えてたからです。

それが、目の前に起こった。

日本では、お客さんを待たせてまでストライキを起こすという発想を持つ人はいません。それくらい、仕事に対して誇りを持っている民族だからです。

ストライキで鉄道がいきなり走らなくなったというのはもはや僕にとって事件。

日本に住んでいれば、電車が遅れることがあっても人身事故や天災などによる不可抗力が働いて、「やむを得ず電車が一時的に止まった」というのがそもそもの理由です。

日本の鉄道は、定刻通りに駅に到着して、発進してくるからこそ、その時の僕の心情というのはただただ混乱でした。

完成度の高い仕事には代償がある

「電車に乗る」

これ以外に考えることがないほど日本の鉄道会社の「完成度」が高いことが、その事件で僕が感じたことです。

当たり前のように電車に乗ってましたが、鉄道会社の「個人的な都合」で電車が遅れることは、まず日本では起きるはずもありません。

それくらい完成された社会に、僕たち日本人は住んでいるのだと感じたのです。

完成度が高いのは、鉄道会社に限りません。

航空会社も定刻通りにフライトしてくれますし(パリへ向かう飛行機もそういえばストライキで3時間ほど遅れたな〜)、アマゾンで欲しい物を見つけて「ポチッ」とすれば翌日には届くように運送業者も完成度は高い社会に住んでいますよね。

電車が遅れることはパリだけではなく、、、、

聞くところによれば、アメリカやカナダ、イタリアやイギリスでは「電車って遅れるもの」という前提条件で走っているのだそう。

日本だけが定刻通りに来てくれるのであって、さすがはGDP3位の国だと思ったのです。

けれども、完成度の高い仕事には代償があったのです。それは、どんな代償なのか?

「個性がある人=邪魔者」という価値観

「個性は邪魔である」という価値観が、日本にははびこっているということ。

僕がそう強く感じてしまうのも、日本に住んでいれば自分の「個性」というものに深く考える時間が、海外よりも圧倒的に少ない気がしているのです。

個性を活かすはずの教育が機能していない?

日本の学校では、地頭や創造力を鍛えるような教育よりも、どれだけ正確に記憶したデータを早く引っ張り出せるのかを重視されている気がしています。

その結果、「学校で学んだことって、社会に出れば役に立たないよね」ってなるのです。

そのまま会社に入っては、自分で考えて臨機応変に動くことは求められるけれども、「自分で考える」という機会が少なかったため臨機応変に動ける人材も少ない気がしています。

地頭や創造力を鍛える場所であるはずの学校が、教育機関として機能しておらず、むしろ「ストライキを起こさない教育」を徹底しているのでは?とすら感じます。

「個性は邪魔」ではなく、「個性は活かすもの」です。

僕が、『個性で選ばれるビジネスをしよう』と言っているのも、「生きる力」をもう一度、養ってもらうためでもあるわけです。

生きる力は自分で養うしかない

学校や会社では、「生きる力」はもちろん、自分の個性や可能性についてじっくりと考える機会が「ほぼゼロ」であるため、自分の足を使って身につけるしか方法はありません。

先生や上司すら、生きる力は持っていない可能性もあるわけです。彼らも個性や可能性について教わる機会がなかったんですからね。

しかし、僕は思うのです。

自分の足を使って、身につけようとする意識さえあれば、生きる力というのは強くなっていく・・・ということ。

そもそもとして、生きる力というのは、地頭や創造力はもちろん、自分で考える力であったり、自分で感じる力であったり、とまさに生きる上ではもちろんビジネスにおいても活きてくるのです。

むしろ、ビジネスをすることって、生きる力そのものだとすら思うのです。これは、今の僕が考えていることであって、1ヶ月後の僕は変わっているかも知れませんが、ビジネスをする時間というのは個性を活かして自分の可能性を存分に活かせる時間だと考えています。

かと言って、稼ぐことが最も大切だとは思いませんし、売上第一主義でもありません。ここは強調しておきますね。

個性を活かしたビジネスとは?

大切にしているのは、充足感を得ること。

やりたいことや好きなことを仕事に結びつくサポートをしたり、今持っているリソースを誰かの「欲しい」に変えるサポートもしているのも、充足感を得てもらうことにも繋がっています。

道徳なき経済は犯罪
経済なき道徳は寝言

そんな言葉があるように、道徳と経済との両方を兼ね備えてこそビジネスだと思うのです。

流行を追いかけるのがビジネスではない

ビジネスといえば、テンプレートを学んで、それになぞって行けば成果が出るとは限りません。

たとえ成果が出たとしても、地頭や創造力が上がっていくわけではありません。誰かが代わりに考えて生み出したテンプレートになぞって出た成果なわけで、「生きる力」を底上げすることにはなっていないはずです。

YouTubeが流行ってるからやろう
メルマガはオワコン
ブログもオワコン
時代は音声だ。だからやろう。
LINEをやると集客できるらしい。

そんなテンプレートをなぞることよりも大切なことがあるはずで、流行を追いかけることだけがビジネスではないはずです。

ライター紹介 Writer introduction

takeyanakano

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